「寂しい」の取り扱い方

私の人生には大きな「寂しさ」がベースにある。この取り扱いが難しく人生が詰んでしまう感覚がいつもある。

成功しているラプンツェルさんたちはこの「寂しさ」の取り扱いを正確に理解していて、仲間に囲まれて楽しく生きていくことができているが、私は全く真逆の取り扱いをしていて、人生が詰んでしまう。

ラプンツェルが持っている「強さ」について考えた時、それは体の強さではなく(むしろ弱いw)精神的な強さでもなく(大幅に強いわけではない)それは「ひとりぼっちでも大丈夫」という強さのような気がしている。

ひとりぼっちでも大丈夫。

こう書くと「そんな寂しいこと言うなよ〜」「強がらなくていいんだよ」と言ってくれる優しい青い鳥さんたち。

私は彼らが大好きで、彼らになんとしても報いたいと思って頑張って「大丈夫じゃない…!」と言いたくなってしまう。

が、逆なんです。

「ひとりぼっちでも大丈夫」という強さを受け入れないと、ひとりぼっちになっちゃう。

ラプンツェルさんは、大きな木みたいなもので「ただそこに生えている」ということが重要なんですよね。そこでリンゴを実らせて提供したり、木陰や落ち葉を提供したりして、みんなに豊かさを提供していく。そこに人がいるかとか、必要としてる人がいるかとか、遊びに来てくれる人がいるかとか、そういうことを心配しないで、ただそこに生えている大きな木。

この「ひとりぼっちじゃ無理!ひとりぼっちとか寂しすぎる!」というパニックに近い感覚がベースにあると、ものすごい現実を歪めてしまい、自分がやりたいこともやりたくないこともわからなくなってしまう。

なぜかというと本当は「ひとりぼっちは無理じゃない」から。

本当はひとりぼっちでも大丈夫なんでしょ?

と言われると、すごいショックを受ける、それは「バレた」「それだけはタブーなんだ」という気持ちになるからだ。そこでのみ人と繋がると思い込んでいるラプンツェルさんは「そんなことがバレたらまじでひとりぼっちになっちゃうから!!」と大パニックになってしあう。

でも「実は大丈夫なんだよね…」そう心から思えたときに、初めて安心できる。

これが降伏である。

その結果、たくさんの人から慕われて仲間ができて、寂しくなくなる。

 

寂しさの取り扱いを間違えると、人に甘えるポイントや、人とつながるポイントを見間違ってしまう。

これって努力の自己洗脳だ。

実は「平気(イヤだけど)」である。しかし、そうなったら「人と繋がる術を失って、本当にひとりぼっちになってしまう」と思い込んでいる。

だから一生懸命「寂しさ」と書かれたお札を神棚に飾って、毎日拝んでいる(寂しさ教)。

「私は寂しいんです!そういうことにしておいてください!」と拝んでいる。

もちろん私だって寂しい時は「寂しいなぁ」と感じるし「寂しいのはイヤ」である。

みんなが「孤独死は嫌だ!」と思っているように、私も思ってる。

でも「嫌だ!」じゃなくて「そうなったら残念だけどしょうがないかぁ」って思ってる、本当は。

その「寂しい」でパニックを「起こさなければいけない」、その「寂しい」は「なんとかして解消しなければいけない」っていうところが自己洗脳。

しかしその「寂しい」を解消する手段は「実は平気だと思い出す」ことなのである。

まじか!

青い鳥さんにとっては逆で「寂しさを解消するため」に行動することが大事なのかもしれない。(わからない)

しかしそれを真似して、一生懸命神棚に「寂しい」を掲げて、それを解消する行動をとると私はなぜか人との関わりを切らなきゃいけなくなってしまう。

なんで?魔法みたい。

すごい。

今「寂しい」っていう気持ちを喚起させて「あ、これもうパニックを起こさなくてもいいんだ。平気じゃないフリしなくていいんだ」って思ったら、その寂しさがすごい喜んでる。

「あーやっとやっと気付いてくれましたか!」みたいな感じで。

これって後者の性質なのかな?

ラプンツェルの性質だと思って書いちゃったけどもしかしたら後者の性質や、ふーん族の性質なのかもしれない。そこはよくわからないけど、とにかくそういうことだな。

まじか。


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