みなさん、こんにちは。
真実の情報はごくごく飲める水のようなものです。
みなさんは情報に対する飢えがあり、いつも真実を求めています。
真実は、水のように、みなさんの生命に力を与えるものだからです。
だから弱っている時、疲れている時、そして生きる意味が分からなくなった時、人は情報を強く求めます。
まるで砂漠の遭難者が水を求めるように強く求めます。
なぜならこの社会には、真実の情報があまりにも少ないからです。
ありとあらゆる情報は溢れています。
教育の中で様々な情報が詰め込まれます。
そして、みなさんはそれが「真実ではない」と言うことが、どこかでわかっているのです。
乾きがひどくなります。
「違和感を持つ私がヘンなのか?」
と、真実を希求する気持ちを否定しなくていいのです。
情報に対して飢えて当然の状況でここまで生きてきたのです。
それは水がない砂漠を耐え抜いたことと同じです。
そして、それは感覚が死んでないと言うことです。
先ほども申し上げた通り、「真実ではない」と言うことがどこかでわかるのであれば、皆さんが「真実である」と言うこともわかるのです。
真実は、ごくごく飲める水です。
水は口に含んだ瞬間、飲み込んだ瞬間、誰でもわかりますね。
しょっぱい海水を「これは水だ」と思ってごくごく違和感なく飲める人はあまりいません。(体に毒です。)
それと同じように、海水だらけの砂漠、と言うのが今の社会の状況でした。
しかし、これから、少しずつあちこちから水が湧き出してきます。
今まで水脈にされていた蓋が外れて、綺麗な湧き水が少しずつ溢れてきます。
綺麗な水をどこからか運ぶ人も次々と現れます。
「その水を飲むのは危険だ!」と心の中で誰かが、言うかもしれません。
塩水になれた人々にとって、それまでの価値観や常識を揺さぶるものだからです。
けれど、水は美味しいのです。なぜならあなた人間だから。
真実はゴクゴク飲めるのです。
真実かどうかを「客観的に」判断することはできません。
なぜなら真実は皆さんの内側にあるからです。
内側に?という言葉に意味がわからないかもしれませんが、水を飲んだ瞬間に「これは水だ」とわかるのは、みなさんが誰かに教えられたからでしょうか?
客観的事実を求める気持ちは、今までみなさんをコントロールすることをたやすくするために習慣化されたものです。(都合がいいものを、客観的に「あった」、都合が悪いものを、客観的に「なかった」と言えばいいので楽なのです。)
観測可能な客観的事実、と言うものはこの世界に存在しなのです。
なのでどうか自分の内側に「真実」があり、その真実に従ってください。
ゴクゴク飲める水を探し、そしてその水をゴクゴクと飲んで、元気を取り戻してください。
その水は飲んでみれば、美味しい水か、しょっぱい塩水かわかります。
自分でわかります。その感覚に従ってください。
「誰かが正しいと言っていた」と言う言葉に惑わされるのは「客観的事実かどうか」を求める気持ちと根源は同じです。
みな、自分の内側の(神聖な領域の)感覚を使うことを禁止させているのです。ある勢力は客観的事実によって人間を一時的に堕落させることに成功しました、しかしみなさんの神聖な感覚は死んではいません。死ぬようなものではないからです。
水は、飲めば水とわかります。
みなさんの渇きは、正当なものです。
真実を希求してください。
ありがとうございました。
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