みなさんこんにちは。
信仰と崇拝は真逆のエネルギーですが、今は崇拝を信仰心のバロメーターのように使われていますがこれは全くの間違いです。
何かを拝まないでください。
信仰というものは、自分の生命エネルギーを充足させてくれるものです。 それは自立を促します。
みなさまの言葉で言うとそれは「道徳」に近いようなものです。
よく「お天道様がみているから、人が見てない時にも悪いことはしないでおこう」と言いますが、あれは太陽信仰なのです。
太陽が自分にエネルギーを与えてくれる神であり、そして実は、その神は自分なのです。
自分が見ているから悪いことをしない、これはエネルギーを不足させる理論ではありません。
崇拝というものは、自分の生命エネルギーを不足させていくものです。
これは依存を生みます。
例えば…そうですね…厄除けというものはどうでしょうか?
厄払いをする必要がある、という文化ですね。
その年齢になったら厄になる、ということになっていますが、それは真実でしょうか?
その厄を払うためにお金を支払って、儀式をして、とってもらわないといけない。
それで不安だった気持ちが安心する。
神様にお金を払って厄を取ってもらったから、自分は安心して生きていける。
これは崇拝のエネルギーです。
もし神様に見放されたらどうなるのですか?
信仰では「もし神様に見放されたら」などと考える必要がないのです。
なぜなら見放す、見放さないと言った存在ではないからです。
主語は、神は、実は自分だからです。
神様に守ってもらっているのではなく、神なる自分が自分を守っているのです。
信仰と崇拝の理論をすり替えたことで、対象となったものは大きな権力を手に入れることができました。
崇拝のエネルギーは多くのヴァンパイア(エネルギーを奪う存在)を喜ばせました。
崇拝の根本は悪魔崇拝であり、危険なエネルギーです。
信仰は私たちに権力をもたらしてくれるものですが、
崇拝は相手に権力を奪われることなのです。
救われることを信じて何かを拝むということはやめてください。
どうか自分だけが自分を救うのだ、ということに気づいてください。
そんなのは、寂しくて一人ぼっちで悲しくなってしまう…
そんなふうに思うかもしれませんがそれはほんの一時期のことです。
ある時すり替えられたあの神様に見放されて、捨てられ、否定された時に、神はあなたをけして見放さないということを知るのです。
信仰とは、自らの内にある神聖に対する「感性」の一つなのです。
人は創造します。
これも自らの神性の証明です。
信仰とは、自分が神であることに対する驚嘆や感謝や喜びが様々な形になったその「証明」に過ぎないのです。
少し難しい話になりましたが、タイミングでいずれまた違う角度からお話ししていきたいと思います。
ありがとうございました。
よかったら❤️を押していただけると励みになります。
【損切りのやり方】2月中にレクチャー会の内容を全編無料公開予定。現在原稿作成中につきしばしお待ちくださいませ。