自由意志は悪魔が授けたのではないですか?

こんにちは。いつもメッセージをありがとうございます。
自由意志について質問です。アシュタールは自由意志は人間だけに与えらたものだと言っていて、そのことには同意できます。確かに知能を使って動植物などを助けることができるのは人間だけだとおもいます。
でも一方で、この知能は万能感のようなものをもたらしている感じがします。例えば、人間が知能を使って人工的な(コンクリートのような)都市を作ったり、自然を破壊して資本主義を成長させたりして。
動物は自由意志がない反面、自然や本能に逆らわずに誰にも迷惑をかけずに自然と調和して生きている。
人間にそれができないのは、この自由意志があるせいじゃないかと思うのです。
聖書では、アダムとイブに知恵のリンゴを食べさせたのは蛇であり、それは悪魔だったように思います。愚かな行為をやめることができない人間をみていると、このような知恵をもたらしたのは創造主ではなく悪魔だったのではないかと思わず疑ってしまいます。
もしよろしければ、ご回答よろしくお願いいたします。

こんにちは。
ご質問をありがとうございます。

さて…どこから話しましょうか。

おっしゃるように人間が、ある面から見れば動物以下の破壊行動を行なってしまうのは、自由意志があるからです。
しかし、こう言うこともできます。
それは「人間が動物のようになってしまったから、破壊行動をしてしまっている」と。

どういうことか説明します。
動物は、本能や感情や環境に対して、とても受動的に生きています。
しかし前提として、自由意思がないのです。なので、神が創造した本能や感情のままに、調和・食物連鎖などを含む循環の一部を生きる以外に自由がないのです。
それ以外の道を創造することができません。

例えば母親のゾウが子供を産んだとき、その子供がちょっと自立する力が弱かったとします。
しかし、親ゾウにできることはありません。
周りをウロウロしたり、子供を鼻で転がしたりするばかりで、その子ゾウを助けることは、できません。
結果として子ゾウを置いて、群れは進んでいくしかないのです。

動物の世界は、そういう世界です。
母親ゾウには自由意志がないのです。
「助けるか」、「助けないか」を選ぶことはできません。

もちろん助からない時はありますよ。
しかし無限に、その場での自分の行動を選ぶことはできるでしょう?
これはとても大きな違いなんです。

目の前に花があるとしましょう。
その花に水をあげるも、踏みつけてぐしゃぐしゃにしてしまうのも、人間は自由に選べます。
(動物は、水をあげることも、破壊することも、選ぶことはできません。)

選べるにもかかわらず、人間が「破壊をする」のはなぜだと思いますか?

それは2つ理由があります。

1つは、動物のように生きることしか教わっていないからです。
人間の特権は選べることである、と知らないで、選べないと思い込んでいます。

選ぶというのは自らの波動を選ぶ、ということです。
自由意志ですね。
これは、この質問者の方がおっしゃる「知恵・知能」とは別の機能なんです。
それは「理性」とも言えるかもしれません。
「自分はどうしたいかを自分で決めて、それに従って波動をコントロールする」ということですから。

しかしそれを教わっていないと、人間はまるで動物のように、本能や感情や環境に対してとても受動的に生きてしまうのです。
動物は、自由意志がないので問題になりません。
しかし人間は「選ぶこと」ができますね。だから厄介なのです。
どういうことかというと、破壊に仕向けることが容易いからです。

選ぶことを忘れた人間は「人間並に知能が発達しただけのチンパンジー」に成り下がっているということです。
チンパンジーに、何かを破壊をさせようと思っても限度があります。なぜならそのようにプログラムされてないからです。しかし人間には自由意志があるので、動機付けをしてあげれば無限に破壊行動を行ってくれます。
バナナを手が届かないように置いておいてフラストレーションを溜めさせるとか、そういうことで操ることができるので、簡単です。

私のメッセージでは、このような人たち(騙されてしまっている人たち)に向けて「波動は、自らがコントロールしてください」とお願いしています。

2つ目は、自由意志を使って、破壊を「意図的に」選択する場合です。
これは実は少数派でして、圧倒的に1つめの理由の人が多いのです。
そしてその圧倒的な多数を、この少数派の方が支配するシステムを作りました。
それがこの社会です。

蛇がそそのかしたのは、2つ目の人たちなのです。

蛇は人間に、自由意志を使って「破壊」をすれば、それは自分が神になることだ、と教えました。
そうしないといつまで経っても人間は神よりも下の存在で、神の作った楽園の中で遊ぶだけの人生だ。それは有意義ではないじゃないか。
自由意志、それは創造主がしなかったことをもできるということだ。
それは「破壊」だ!「破壊」こそが人間を神と同等にできる行為なのだ、と蛇は人間に告げました。

しかし、そのことに耳を傾ける人間はとても少なかったのです。
ほとんどの人は楽園にいることは幸福だし問題を感じていなかったのです。しかしほんのごく一部の人は「それも悪くない」と思って、自由意志を使って悪魔の手下になりました。
そして彼らは、蛇に唆された罪を「原罪」として人類全体に擦りつけたのです。

しかし、2つ目の理由の人を変える必要はないんです。
なぜなら圧倒的に少数なので…大多数の人が1つ目の理由に気づいてしまうと、彼らはできることがありません。なので直接的に彼らを改心させようとか、そういう問題にする必要は一切ないのです。

自由意志とは「自らが人生を創造する」という力の表現です。

力は破壊に使うこともできますが、繁栄に使うこともできます。
皆が自分の人生を繁栄させるためにもっと強くなる必要があります。
それは刷り込まれてきた受動的な態度に対して、強くなる必要があるのです。

自由意志そのものに罪や悪はありません。
それは創造主(創造の1点)の人類に対する最大の敬意の現れです。

創造主は人類を前にひざまずいて、愛と調和の気持ちと最大の尊敬をもって、人類に「自由の冠」を与えました。
人類は誇りと歓びの中で自由の冠を受け取り、その一部の者が、ひざまずいた創造主に唾を吐きかけ蹴倒して「俺が王様だ!」と叫びました。
そして大勢の人が、その一部の者を王様と信じて、言われるがままに王宮を破壊し始めました。
全く、とんだ放蕩息子ですよ(笑)

放蕩息子の物語でもあるように、それは、別にいいのです。
別に蹴倒された創造主は、何も怒ったり恨んだりしていませんよ。
自由意志をどう使おうと「自由」です。じゃないと自由意志ではないのですから。

でも、ほとんどの人は、自由意志を選んでコントロールして、自分の特権として使えてないでしょう?
それが問題なのです。

自由意志の使い道はふたつ。
それは「破壊」か「創造」かです。

私はぜひ、創造していただきたいと思っているのです。
それが、みなさんの明るさ、笑顔、強さ、幸せに繋がるからです。

しっかり生きてください。

応援しています。

ありがとうございました。


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