波動を上げる話と初期仏教で語られる教えは同じですか?

初期仏教で教えていることは、波動を上げ壁を壊していく、ということと同じでしょうか?
ヴィパッサナー瞑想すると知覚の感覚が鋭くなる(取れる情報が増える)体感があるけど、それは波動を上げるってこと?波動を上げるのは意識でアプローチするが、身体アプローチでそれをやっているということなのでしょうか?
また、瞑想すること自体が壁になる人がいるように思うのですが、波動をあげようと思うことが壁になるってことはあまりないように思います。
初期仏教では波動をあげなさいとなぜ直接言わないのでしょうか?

こんにちは。
ご質問をありがとうございます。

そうですね、仏教の見解ととてもよく似ています。
さまざまな条件や時代背景により、その説明はだいぶ違ったものになっている部分はあると思いますが、それは説明している「相手の常識」が違うので当然そのような形になるのです。

仏教も、私が申し上げていることにも重要な共通点があります。
それが「自立」か「依存」かです。
「依存」とは心の状態を、誰か・何か・どこか(外部)に管理されることです。
「自立」とは心の状態を、誰にも管理させず、自分で管理するんだということです。

そして「心の状態を管理する」という言葉をさらに詳細に見てみますと、それは「自我の錯覚を破る」ということによって成し遂げられる(解脱)と、初期仏教で説かれています。

私はこの「自我の錯覚」というのが存在しているレイヤーは、人間の波動の多重構造の中でごく一部の限られた部分であり、それより上の次元にフォーカスするとその錯覚が「薄くなっていく」ことをお伝えしています。

なので方向性は、同じなんですね。
檻を増やしていくベクトルではなく、檻から解放されていくベクトルです。

波動をあげようと思うことも、瞑想です。
波動をあげよう、と思っているときは瞑想している状態と同じになります。要は「自分の内側に目を向けている、観察の対象が心」である状態でしょう?それは瞑想と同じなんです。

瞑想すること自体が壁になるということはないと思います。
あるとすれば、瞑想じゃないものを瞑想だと思い込んでいたり(例えばポーズなど。)次元の壁(仏教の言葉で言うと、三毒からくる雑念や妄想、幻想のこと)に阻まれてしまうということです。
このことはさらに波動を上げていけば、破ることができます。(=瞑想修行)

ただ、仏教との大まかな違いがあるとすれば、活用する段階が少し違う気がします。
「波動を上げていく」というベクトルは同じなのですが、実際に波動を上げていくと壁にぶつかりますよね。その壁には、進めば進むほど人間に共通の傾向が出てくるんです。
話をわかりやすくするために、1の壁、2の壁、3の壁としましょう。
3の壁を越えるときにはヴィパッサナー(観察)が必要になるのです。そして、だいたい1の壁の中でみんな生きています。(あくまで、ざっくりした例え話ですよ。)1の壁にはたくさんの種類がありますが、3の壁には種類はありません。
なので仏教は在家と出家を厳密に分けているのです。それは、ぶつかる次元の壁が段階によって違うものだからです。(最初から観察によって1の壁、2の壁を破ることは可能ですが、やや現実的ではないんです。)

観察瞑想の前提は「すでにある程度自我が弱い」状態なんです。じゃないと観察することに耐えられないからです。

仏教と私のお伝えしている内容は「檻から出て自立していくこと」なのですが、伝える相手の状態や、常識や、時代背景などによって全然違った言葉を使うことになってしまうんです。

それからもう一つ違いがあります。

仏教のゴールは「自我の錯覚を破る」ですが、私の想定しているゴールは「自我の錯覚が薄くなる」です。

理由は2つあります。
まず1つ目は、私は人間ではないので解脱ということはわからないからです。
自我の錯覚を破ったことがない、つまり、解脱したことがないので。
それがどんな状況なのかを語ることができません。私が語ることができるのは「自我の錯覚が薄くなる」ことについてだけなのです。

2つ目は、自我が弱くなる(少し次元を上げる)だけでも全く今と違った、自由で精神的な、調和のある文明が作れるからです。
文明というのは俗世間の言葉なんです。
なので私は俗世間として、今のように生命が軽視されたり豊かさが一箇所に集まるような文明ではなく、調和と循環の中で、全ての人が充実感と安心感を持って暮らせる文明を創造して欲しいと願っているのです。

私の読者の方は、スピリチュアルリーダーを想定しています。
「精神性」に目が向いている少数の人たちです。
仏教の言葉で言うと俗世間と出世間の間くらいにいる方々です。

「自分の心は自分で管理する」という教えは結構厳しいんです。
それは「誰のせいにもできない」からです。
一番甘い教えは「原因は外部にあるから、私を信じない、そうすればその悩みや苦しみを取り去ってあげよう」という教えでして、俗世間ではこれが大人気なのです。(痩せれば幸せになれる!とか)
しかしそれでは、どんな立派な教えでも創造的な人生ではなく、依存的な人生になってしまうのです。

もし解脱を目指したくなったら、ぜひ初期仏教の教えを参考にして、チャレンジしてみてください。

ありがとうございました。


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エネルギー治療者、ヒーラー&カウンセラーのみくです。大磯町のサロンにて、個人セッションを提供しています。read more