「上がる・下がる」は善悪二元論?

質問があります。
波動が「上がる・下がる」とか「天国・地獄」とか言われると、どうしても波動が上がった方が苦痛がない世界で、波動が下がった方が苦痛なもので避けるべき、という『善悪二元論』になってしまう気がして、気になっています。
ジャッジメントは波動を下げるものではないのでしょうか?
それでも「上げる」「下げる」、という表現は適切なんでしょうか?
(by Kさん)

みなさんこんにちは。
素晴らしく重要な観点でのご質問をありがとうございます。

波動を「上げる」「下げる」と言っているのは表現の問題なんです。
例えば音に「高い」「低い」がありますね。
高い音の方が優れていて、低い音の方が劣っている、とみなさんは思いますか?
思いませんね。
じゃあ、高い音と低い音という「違い」が存在することについてはどう思いますか?
結局全部同じ「音」だから、高いも低いも一緒じゃないか、ということにしてしまうと、どうでしょう。
音楽や、合唱などは全て成立しなくなってしまいますね。

波は、+と、ーがあるから波として成立しているのです。
じゃあ「波」は全部、「同じ」波かというとそうではない。
間隔の狭い波もあれば、間隔の大きい波もある。

現象を存在させるのは、必ず波が必要なのです。
光と闇が必要です。
全く光、というのは、全く闇、と同じです。
それは「存在」することができません。

存在する限り、光成分と、闇成分が、増えたり減ったりして、存在があるのです。

この、「増える・減る」とか、「狭い・大きい」とかを、私は「高い・低い」と表現しています。
波動が高い=善、波動が低い=悪という意味は全く含んでいません。
なぜかというと『それは個々人が自由に決めることだ』と思うからです。

「高い」「低い」が存在することと二元論は違うのです。
「高い」「低い」はどちらも波動を表す類義語であり、対義語ではないからです。

みなさんは、単純に「地獄」と言われると悪いところ、悪いもの、苦痛、悪いことをした人がいくところ、そんなのをわざわざ選ぶ人なんていない、劣っている側になりたいなんて思う人はいない、と思うかもしれません。

しかし、私から見るとみなさんは、かなり悪魔的なもの(地獄風のもの?)を「かっこいい」と思ったり「そうなりたいな」と思ったりしています。
でも、それは「好み」なんですね。何をカッコいいと思うのかは本来自由なんですから。
逆に、その悪魔的なものを善とする感覚でいると、天国風なものを「キモい」とか「ダサい」と思うようになります。
つまり、悪魔的なものを善、天使的なものを悪、と感じるということです。
それで何も問題がないのです。

私は、地獄風のものを好む皆さんを見て「波動が低いから、私より劣ってるなぁ」と感じることはないということです。
善か、悪か、というのは、波動を選択する際の「好み」によって個々人、そして、それが集合的になった民族が選択するべきものだからです。

そして、私はあえて今回言いたいのは「二元論」を否定する必要はないということです。

おっしゃる通りジャッジメントは、波動を下げます。
しかしジャッジメントが波動を下げるときは、条件があります。
それは、そのジャッジメントが外部に規定されたものであるということです。

人は一瞬一瞬「判断(=ジャッジメント)」をして生きています。
しかしその判断の基準になるものが、自分の波動がもたらすインスピレーションではなくて、外部で規定されていたとしたらどうか。
波動を自分が変えても、また、元の波動に戻されてしまうだけなのです。(インスピレーションが採用されない)

これを破る、ということが、波動の話なんです。
みなさんが自由を、自由意志を取り戻すこと。

何を善とし、何を悪と決めるのかは、自らの感性でなければいけません。
それが「好み」です。

善悪二元論は、本来、選択の話だったのです。

甘いもの、しょっぱいもの、どちらを選ぶのかは民族の選択です。
「甘いもの方がいいに違いない」と決めた民族がいました。
「しょっぱいものの方がいい」と決めた民族がいました。

前者の民族は、「甘いもの=善、しょっぱいもの=悪」とします。
後者の民族は、「しょっぱいもの=善、甘いもの=悪」と思います。

どっちが正しいか?
どっちも正しいんです。
それは民族の選択による善悪なのです。

善悪は、存在します。
それは道徳として、虚構として、存在します。
そして何が善か、何が悪かは、自由に規定されるべきものです。

なので善悪二元論=ジャッジメントで良くないもの、という考え方は現実に則していないのです。

よくニーチェは善悪二元論を否定した!と言われますが、それは誤読です。
ニーチェが批判したのは「善神勝利一元論に即した善悪の二元論」なのです。

どういうことかわかりますか?

善悪を決めるのは「全知全能の善なる神である」という二元論です。
恐ろしいことです…。
それは人間から「選択の自由を、完全に取り上げた」ということなんです。
ニーチェが批判したのは、このような自由意志への介入ということだったのです。

とても難しい話になってしまいましたが、ご理解いただけましたでしょうか。
皆さんが、自分の人生を自分で創造できるようになることを心から応援しています。

ありがとうございました。


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エネルギー治療者、ヒーラー&カウンセラーのみくです。大磯町のサロンにて、個人セッションを提供しています。read more