共依存する友情、しない友情

友達とは何でしょうか?
これまで感じていた誰かと親しくなるという感覚は、愚痴を聞き合って馴れ合うとか、話が通じそうな人に会うと急激に距離を詰めようとするような関係で、それはエーテルコードで繋がるってことなのかな?と思うようになりました。
でも、エーテルコードを繋がないと友達ってできないかも?と思うようになりました。
それ以外の繋がり方って、同じ目的を共有する仲間とかだったりするのでしょうか?
それとも友達はいらないのでしょうか?
子供を見てると友達が必要そうにも見れます。
子供の頃の友達関係が特殊なんでしょうか?

みなさんこんにちは。
ご質問をありがとうございます。

確かに、友達という言葉自体が、使われるシーンによって定義が曖昧な言葉で、人それぞれ「この人は友達」と思う対象も違うようですから、少し混乱してしまいますね。

なので「友達」を「人間同士の関わりの根本単位」だと考えてみましょう。

友達とは、具体的にみていくと「相互扶助関係」と言うことができます。

互いに助け合うのが、友達です。
ここで、ハッキリそう定義します。

人間はみんな、お互いに持っているものが違うため、助け合うことで存在できています。

家族や、恋人・夫婦、同僚や上司、地域の人なども、ベースにはこの「友人関係」があります。

これは、生きていく上で、とても大切なものです。
「友達は必要ですか?」というのをそのような定義で考えると「あなたは友達なしでは生きていけません」ということになります。

例えば普段、他の住人を知らない状態でマンションに住んでいるとしましょう。
そこで火災報知器がなって住人が外にきのみきのまま逃げ出した状態になれば、顔を合わせて「何があったんでしょうね」とか「怖いですね」とか「ただのボヤだといいですね」とか話すんです。
あれは「万が一の時は”できる範囲で”助け合う関係である」と言うことの表明なんです。
それは広い意味では友情なんです。

その時にも「誰のことも助けたくないし、助けて欲しいとも思わない」と思うと苦労するのです。

なので、まず「この人は友達、この人は違う」という固定した考え方自体が不自然だと思います。

その時、その時で、助け合う相手は変わるでしょう?(自分にとって必要な助けを持つ相手は変わるでしょう?)
友達と長く続かない、とか、友達付き合いが煩わしい、とか感じている人は、そもそも「友達」というものを人(誰か個人)に結びつけて考えてしまうんです。

でも、そうではない。変わるものです。
ただ、友達だと思える相手を、助けることができるリソースを持っていればそれを提供する。
相手も、自分を助けるリソースを持っていて、自分を友達だと思っていれば助けてくれる。
それが、家族だろうが、同級生だろうが、隣人だろうが、同じことです。

逆に言えば、家族や、恋人・夫婦でも「助けてくれない」と言う場合は友情は成立しないんです。
例えば親が子供を虐待して、搾取していて、それでも「親と子は友達です」と言うのは成立しないんです。そこに助け合いがなければ。「夫婦だから当然仲良しでしょう?」と言うのは、紙の上の契約であって実際にそこに相互扶助関係がなければ、人間関係の最小単位すら破綻しているのです。

根本にあるのは「相互扶助の関係」です。

しかし、その助ける範囲は、お互いの「できる範囲で」と言うのが重要です。
ここで、エーテルコードが繋がっているかどうかの違いが出てきます。

エーテルコードがつながっている関係は、エネルギーを、与えたり、与えられたりする関係です。
一見、助け合いのように見えます。
しかし、エネルギーは一人一人持って生まれた自分のエネルギーがあります。
それに干渉するのは本来マナー的にNGなんです。

自分のエネルギーを相手に与えるのもNGですし、相手から奪うのもNGなんです。
これが「できる範囲で」を超えてしまっている状態になると、共依存になってしまうということなんです。

例えば共依存の極端な例として、依存症と援助者という関係性があります。
依存症の人の問題の解決を、援助者が行う。
(依存症の人から援助者が、エネルギーを奪う)
また、援助者は自分の問題を、依存症の人の大変なお世話によって見ないで済む。
(援助者のエネルギーを、依存症の人が奪う)

これは『できる範囲』を超えてしまっているのです。

エーテルコードを繋いでしまう前提にあるのは、エネルギーの枯渇の問題があります。
大切なのは、自分自身のエネルギーをしっかり保全できるようになることです。
よく「精神的・経済的に自立すること」の重要性が説かれますが、その以前に「エネルギー体としての自立」を達成した方がいいのです。
なぜなら、精神的・経済的なことは、状況によって誰かの助けを受ける必要があり、何が自立で、何が依存なのかの区別がつきにくいからです。
エネルギーが自分で「自立している」状態になれば、誰かとエネルギー上で干渉し合うことはなく、健全な相互扶助関係を築くことができます。
そのためには、オーラに大きく穴が空いてしまっている場合はそれを修復し(自分でできればいいですし、ヒーラー等の助けを受ければよいでしょう)エネルギーが自己充足している状態に持っていくことが大切です。
逆にいえば、エネルギーが枯渇しているのにエーテルコードを繋がないというは難しいです。
飢えている人の目の前にパンを置いてある状態で「盗むな」と言っても難しいのです。
なので、まずは自分の力でお腹をいっぱいにする必要があるんです。

そうすれば「できる範囲」を超えた繋がりをしなくて済むのです。

愚痴を聞き合って馴れ合うとか、話が通じそうな人に会うと急激に距離を詰めようとする、というのはそれ自体では判断しにくいのです。例えば「愚痴を言い合う井戸端会議」という場合はエーテルコードがつながってない状態で、リソースをできる範囲で提供して情報共有やストレス解消になっているでしょう?
急激に距離を詰めようとするのも、相手と価値観が似ていて話が早いからなのか、エネルギーに飢えているからなのかはそれ自体では判断しにくいのです。
ただ「自分でできる範囲の助け」「相手にできる範囲の助け」をお互い、どちらかでも求めてしまっていたらそれはエーテルコードの繋がりだ、という区別の方がわかりやすくてスッキリしていると思います。

さて、話を戻しますと。
なので友達というのが大仰に「同じ目的を共有する仲間」とか考えなくていいんです。
一緒にいて、好ましいと思えることは重要ですが(嫌いな人間を助けることは人情として難しいので)、何かあった時に快く助けたいと思える相手は皆、友達です。
助けを求められたときに、自分にその解決のリソースがあれば提供する。
なければ、断る(提供できないので)。
自分も相手に、助けを求める。
全然快く助けたいと思えない、助けを求めたくない相手ならば、友達になるのは難しいでしょう。

また、自分のできる範囲を超えて助けないといけない相手ならば、その相手とは共依存状態になっているので、危険です。それはそれで有益な助け合いが成立しないので、また、友達と呼ぶことは難しいのです。

子供時代の友達というのは「他人と助け合う練習」のようなものだと思ってください。
人間界には「助け合う際の儀式」のようなものがあります。
例えば「挨拶」とか「笑顔」とか。
高度になってくると「人によっての感じ方の違い」とか。

色々経験しておかないと分からないことがたくさんあります。
「他者の存在を、社会的にどのように認知するか」という経験が、助け合う時の練習になるので、そのようなものだと思ってください。

本番はあくまで、大人になった時の相互扶助の関係です。

また、これは余談となりますが、実は相互扶助の関係は人間同士だけではなく、あらゆる生命に置き換えてみて同じなのです。
幽霊だろうが、アリだろうが、惑星だろうが、生命としての意識を持っているもの全ては、大きな目で見れば全て助け合って、循環して存在できているのです。
だから同様に全ての生命に対して「友情」を持つこと、そして「エネルギーで干渉しない」ことが大切なのです。

ご理解いただけましたでしょうか。

ありがとうございました。

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