私たちは自由にならないために転倒した世界を利用する

先日の記事に引き続いて、門番さんの話なんですけど。

門番さんって、集合的な意識に存在する番人なので、誰のことも乗っ取れます。

例えば、あなたが「自分はこんな高い買い物をする価値はない」と思ってたとします。

しかし頑張って買い物をしようとするじゃないですか。
そうすると「なんか店員さんが売ってくれない」という現象が起きます。

これは店員さんが悪人というわけではなく、門番さんがあなたを自由にさせるポイントを察して、先回りして恐れを見せてくれるんです。

「それでもお前は買うのか?なぜ?頭おかしいんじゃん?」という形で。

だからその時は「あっこの店員さん、門番さんだ(はい、呼び出したのは私デス)」という目で見ることが大切です。

もしくは、無事に買えたとしても「急な支払いが発生して売らなければいけなくなった」とか「家族にめちゃくちゃ怒られた」とか、そういうことが起こります。

もちろん、必ずしも外界でこれが起こるわけではなく「なんだか買ったこと自体がバカバカしくて意味のないことに感じられる」というように自分の内側で門番さんが言ってくることもあります。

しかしそれでは「反対として弱い」のです。

だから人は必ずタブーに触れたときに「他人を」、「外界を」利用します。

例えば「こんなことを言ったらバカにされるだろうなぁ」と思っている人がいるとして。
「でも勇気を出して言ってみようかな」と一歩を踏み出します。

そうすると、誰かが親切にもあなたの発言をバカにします。

あなたは「ほらやっぱり!これは、私の思い込みなんかじゃなくて『客観的事実』なんだ」と確信して、その親切な誰かのせいにして、満足するのです。

「バカにされて傷ついて、行動を起こせないの…ぴえん」などの、程の良い逃げ文句という豪華付録付き。

このように門番システムは、他人を巻き込みながらしっかりとその人を囲い込みます。

しかしここには前提として主従の逆転があるのです。

それは「私は、世界に存在している」という逆転です。
実際はそうではなく「私は世界を存在させている」のです。
しかしこの逆転により、人はまるで「世界」と言う客観的事実が自分の外側に存在しており、それらは自分よりも権力を持っているという洗脳に堕ちました。

この門番システムでよく代表して言われるのが「親の刷り込み説」です。

例えば親の過干渉だったり虐待だったり、そうじゃなくても何かその子供にとって辛い刷り込みを与えられたせいで、それがタブーとなり、それが自由を制限させるトリガーになる。
わかりやすく言えば、親の言いつけを守る、いい子でいる、そのせいで自由になれない、ということですね。
でも実際は、大抵の親は意外とかなり子供を愛しています(もちろんそうじゃない親もいますが)し、それで親は、その親から、またその親から代々言いつけを受け継ぎ続けるわけですね。

ここに門番さんがいます。

「親のせい」と言えるほどの根が浅い問題ではないということです。
人間は代々このようにして支配されてきたという話です。

だから例えば「店員さんが売ってくれない」というときにどうすればいいのか?ということですが、「ああ、門番さんが出てきてくれた!」と思って、波動を上げればいいんです。

門番は結局「お前はそれでも自由を選ぶのか?」ということを問いかけてくるだけです。

もちろん脅しもつかわれますが、突き詰めると「ホントにそれでいいの?」と質問してくる存在に過ぎないんです。

「SNSで批判されるに違いない」→批判されます。

「家族に反対されるに違いない」→反対されます。

「彼氏に嫌われるに違いない」→嫌われます。

「誤解されるに違いない」→誤解されます。

ホントにそれでいいの?っていうことです。

「お前は転倒した世界を抜け出す覚悟はあんの?」ということです。

「自分が世界を創造する主体になるつもりなの?」ということです。

「善悪の秩序から自由になっても生きていく力が自分にあると信じているの?」ということです。

「ワタシが創造した世界の中で夢を見ているだけで幸せなんじゃないの?」ということです。

強迫性を「主体性」であり「自由行使」だと勘違いしている我々は、その強迫性に対して強い執着を持っているのです。

例えば「頑張れば報われる」というのは「報い」に対する中毒に対して強迫的に振る舞うことを「頑張り」と呼んでいるので、「頑張らなくていいよ」と言われると人は「報い」が得られないのではないかという恐怖を感じるわけですね。

「頑張らせてください!!」(土下座)

この「報い」はお金だったり、地位や名誉だったり色々な形を取りますが、門番さんが見せてくれる「夢」なんです。「夢」はどこまで行っても「夢」で、中毒とそれに対する強迫性は終わることはありません。

それで結論ですけど。

「ワタシが創造した世界の中で夢を見ているだけで幸せなんじゃないの?」ということに対しては、「それはどうかな?」「私はもうそれが真実だということを信じることができないカモ☆」と明確に表現すべきです。

簡単にいうと、門番を前にしても、波動を下げないことです。

そこ譲るなよと。

私は「ブログが更新できない理由」が、「人類がそれほど自由に対して目覚めたいと感じていないのではないか?」という門番の問いが自分の人間不信と結びついていて、スムーズにアシュタールのメッセージを書けないこと、だと気づきました。

それに対して私ができることは「まぁそうかもしれないけど、そうとも言えないかもしれないじゃないか。」と、冷静に彼に言うことだと気づきました。

けして「違う!絶対に!人は自由になりたいのだ!」と言う必要はないのです。

しかし私はそのつよい確信を求めていた。

それもまた罠で、新しい門番さんが増えてしまうんです。(例えば何か、別のドグマによってその門を出たところで、今度はそのドグマから解放される場面が増えるだけなのですから。)

自由な精神を持つ異常者たちは、皆、門番から自由になることを渇望します。

門番の深〜〜〜〜い愛情(かっこ笑い)が苦しいのです。

さりとて、価値の転倒した民主主義育ちの我々は、門番の脅しやなだめやすかしに対してビビってしまって、「やっぱいいです」と引き下がります。(価値の転倒って、世界と自分の主従関係のことね。わかってると思うけど)

そして「私が自由になれないのは〇〇のせいだ」とか「〇〇にそそのかされてとんでもない目にあったが、やはり私は正しかったのだ」とか言ってぐるぐると門番の前を回っています。

しかし、やはり自由になりたい。(そういう本能を持つから。)

そして、その代わりとなるような『もっと別の強い教義』がどこかにあるのではないかと探し求める旅に出る。その結果「これなら自由になれる!」と思わせてくれた教義にハマってしまうのです。

あぶねー、なんかまた探してくるところだったw 波動あげに感謝まじ。

 

自由になるプロセスはもっとシンプルでかつ、他の手段はないのです。

とにかく、門番さん外界verの対処法は。

門番さんが出てきた時は「あっこれ、門番さんだ(はい、呼び出したのは私デス)」と思って、腹を括って「よっしゃ、私が呼び出したんだから、私の覚悟いっちょ見せてやろうや」と思うことです。

そうすると何が起こるか。

その人は別人(門番さんから元に戻る)になります。

例えばずっとやりたかったことをやろうとしたら、ある人がめっちゃ渋い反応をしてきた。
いつもだったら「あーあ、やっぱりこうなった。だからヤダったんだよ〜、やっぱりやめておいたほうがよかったじゃん。やめよやめよ。平和を大事にするのが私のモットーだし。」とかなんとか言いながらすごすご退散していたところですが、ここで「あ、門番さんやん。ごめん呼び出したの私だわ。」と気づく。
頑張って波動を上げましょう。
そうすると冷静になって「それでもやってみたいんだわ、ごめん」と、素直に言える。言ってみれる。
そうすると「いや、いいんじゃない?」と応援されたり、すっと目の前からその人が消えたりする。

実際はもちろんそのプロセスは個人によって、またフェーズによって具体的な部分は大きく異なります。その都度、それ相応の研ぎ澄まされた本能を持ったものに示唆されながら進むと、スムーズでしょう。

以上


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