「いつか天国に行けるかもしれないチケット」を手放す

こんにちは、みくです。

コンプレックスを追いかけることには、とても強い魅力と快感があります。

なので「コンプレックスを解消しようとするのは無駄な努力で永遠に報われないが、それをやめた途端に楽で安心する境地が訪れる」ということを理屈でわかっていても、実践するのは難しいんです。

コンプレックスを追いかけることは、人によっては「唯一の楽しみ」であり「自分が賭けてきた最大の希望」であります。

それは「とっても楽しいこと」だったりします。

それを取り上げられることは何より辛いことです。だから報われない努力と分かっていてもなかなか辞めることができない。

私は以前、副腎疲労の関係の記事で「普通の人をやめれば普通の人になれる。」という趣旨の話をしました。

しかしこの前段の「普通の人をやめれば」というのは、深いコンプレックスと関わっているのです。

今だからわかるのですが、私を苦しめていた最大のものは「普通の人コンプレックス」でした。それは唯一、私の生きる原動力であり、私の快感であり、私の希望でした。

「健康な普通の人っぽいこと」をしていると、不思議な高揚感と、自信と、快感が生じ、あたかもそれが「本当に好きで、とっても楽しい何か」「自分がずっとやりたかったもの」のように感じてきました。

しかし、「健康な普通の人っぽいこと」と言っても、それはもちろん自分の中にある、子供じみた、空想のイメージなんです。

空想のイメージの中で「健康な普通の人は、おしゃれして、都会でイタリアンを食べるに決まってる」と思えば、おしゃれをして都会でイタリアンを食べている時に、脳内快楽物質がバーッと出てしまうのです。

「健康な普通の人は、夕飯の食卓でカレーの匂いを漂わせながら、家族と団欒を楽しんでいるに決まってる」と思えば、なんとかして、家族を作って夕飯にカレーの匂いを漂わせ、団欒っぽいことをしたい!と熱望してしまうのです。

「健康な普通の人は、普段しっかり働いて、そのお金を連休の時に旅行に使うに違いない」と思えば、就職して、ボーナスで海外旅行に行って、その間はずっと「私すごい!私やれてる!私って普通の人だったのかも!」という高揚感に包まれています。

そう思っている人に「おしゃれはやめなさい!」とか「カレーなんて体に悪い!」とか「本当は一人の方が楽でしょ!」とか「就職するのもしんどいでしょ!」とか「旅行なんてお金の無駄遣い!」とか「そういうふうな生活をしていると永遠に副腎疲労は治らないよ」と言ってみたら、それがその人にとって「真実」だったとしても、その人はショックを受けて、真っ向からスルーするか、拒絶するか、それか「じゃあ、いつまで我慢すればいいですか?」という発想になってしまったりするわけです。

だからコンプレックスを追いかけるのを辞める、というのは、とても難しいんです。

コンプレックスを追いかけるのをやめた途端に、頑張らなくても何不自由なく生活できるようになり、コンプレックスを追いかけることに使っていたエネルギーを、本当に向いていることに使えるようになり、それを楽しくやっているうちに、それがまた資産を生み、やがて自分なりの大成功を手に入れることができる、と、わかっていても、できないんです。

「コンプレックスを追いかけるのをやめろ」と言われると、みんな、すごく悲しくなってしまったり、落ち込んだりするのです。

さらに、人によっては、攻撃的になったり、「意味がわからない、何を言っているかわからない」となってしまいます。

コンプレックスを追いかける快感を奪われるくらいなら、そんなものいらない!と思って、流れ込む豊かさを全力でブロックしてしまいたくなるんです。

頭では「だめだよ、そんな方向性に行っても私はうまくいかないよ!今までの人生もそうだったじゃん!」といくら思っても「でも、私だってできるもん!私を馬鹿にしないで!私はやるんだ!」ともう一つの心が暴れ狂います。

コンプレックスの騙しのテクニックは相当なもので、それはほぼ依存症と同じようなものなのかもしれません。

だから、それを奪われる時の苦しみも、依存対象を奪われるような苦しみになります。

私の場合は根底にあったのがこの「普通の人コンプレックス」だった。そして、そのコンプレックスを克服するのではなく、ただ手放そうと思って、1個ずつ手放してみたら、どんどん変化が起こり「なんだこれは!今まで騙されてた!」という体験をしているのです。

でもその道は平坦ではなく、時折爆発したように「あの快楽を私にくれ〜!」「もう二度とあれを味わうことはできないのか〜!うがうが」という苦しみが湧いてきます。

そんな、誰のものともわからぬ子供じみたイメージに、どれほど強烈に魅力を感じているんだろう、と、そんな自分を眺めていて心底、不思議で。

そんな自分が、みじめで、哀れです。

そうしてみると、思い出すのはやはり子供の頃なのです。

子供の頃に「きっとすばらしい未来が待っている」という妄想に心を奪われました。それは、そのような妄想をしないと、生きてこれなかったからです。

唯一の生きる気力を見出していたものが、その、子供じみたイメージだったのです。

子供は、子供ですから。社会も知らないし、テレビの情報や大人たちの様子などのイメージだけを手がかりにして、自分が「報われて、救われている状況」を想像します。

そしてその想像の中こそが「やがて訪れる本当の現実なんだ」と信じ、妄想し、ずっとその夢を追いかけながら大人になってしまう。

現実はまるで180度逆の地獄だったとしても、そのことは直視したくないので、子供じみた「自分のコンプレックスが解消された姿」を勝手に想像し、その姿に自分を近づけていくことが、報われるための唯一の手段だと思い込んでしまうのです。

そしてそこに近づくと、バーっと脳内快楽物質が放出されて、束の間の快感に身を委ねることができる。これが救済された感覚で、これがずっと続くようにすればいいんだ…そんなふうに勘違いしてしまうのです。

しかしここで、例の、大きな転換があるのです。

それは「コンプレックスは解消する必要がない、むしろ解消しようとすると永遠にそこに囚われてしまう。」「救済は、コンプレックスを解消する努力では得られず、その努力を辞めることで得られる」という、コペルニクスもびっくりの大転換法です。

しかしその努力を辞めるのは、それ自体が怖いことです。そして、その努力をやめたら「アメ」がもう貰えなくなるのです。それは「いつか天国に行けるかもしれないチケット」を手放すことです。

でも、人が天国に行けないのは「いつか天国に行けるかもしれないチケット」を捨てることができないからなんです。これほどの詐欺はありましょうか。


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