汚染された言葉と新しい時代

こんにちは、みくです。

少し前、しばらくSNSで発信活動をやってみたのですが、SNSのことを勉強しているといろんな特性があって面白い。

今日はTwitterを勉強してて気づいたことを話す。

私がこれまで発信しにくさを感じてきた原因は。

「汚染された言葉」にあった。

それが私がこのブログを出て外界に向かえなかった理由でもあった。
今日はそんな話〜。


汚染された言葉とは。
例えば、ある人が「努力が必要だ」、と言っていて
ある人は「努力は必要ない」、と言っている。

この努力はそれぞれ別のものを指す場合がある。
だが、同じ言葉が使われる。
「努力は必要だが、努力はやめよう!」と言っている。
まるでトンチである。

こういう言葉を私は「汚染された言葉」と呼ぶ。

汚染というネガティブな言葉を使ったのは

「同じ言語や文化圏の中で使われる共通言語が、ダブルバインドによって『呪詛的催眠』に悪用されている!」

ということを批判したい意図がある。

汚染された言葉の除染作業をしないで議論すると「内紛」になる。
(宗教戦争)

除染作業には時間(文字数)をかける丁寧さが必要になる。

しかも理論上の除染作業だけでは不十分で、言葉の「体感や実感」の書き換えを行うのがより望ましい。つまり、体験を通じた言葉の除染が必要なのだ。

この除染作業というのは、本来のワンバインド(共通言語)には、必要ない。

例えば日本国内で「クレープって美味しいよね」と伝えるために、クレープとは何か?美味しいとはどういうことを指すのか?ということは考える必要は基本的にはない。

それはクレープをほとんどの人が食べたことがあり、美味しいというのがどんな感覚かを共有しているからだ。(共同幻想)

しかし、もしアマゾンの奥地の人に「クレープって美味しいよね」って伝えるとしたらどうだろう?
クレープとは何か?
美味しいとはどういうことを指すのか?
アマゾンの人がクレープを食べた時にどういう反応をするのか?
はてしなく大変である。

しかしこれは前提に「アマゾンと日本って全然違うよね〜」という認識があるので戦争にはならない。

一方「同じ民族、言語、文化集団の中で起きる」のが「汚染された言葉」による内紛である。それは「除染する必要がない」という思い込みを悪用して作られた。

だもんで、私は、常にアマゾンに立ち向かう人のような気持ちになってしまって、途方に暮れブログに引き篭もってきたのだ。

そして壁に向かって「クレープって、美味しいよね…?」と呟いていたw

それで、汚染された言葉の話に戻るが。
例を出そう。

ある人は「この国は努力教だから窮屈だ。」と嘆く。
ある人は「努力を否定しても何にもならないのに。」と嘆く。

この二人は議論が対立しているように見せかけて同じ気持ちを言っている。
それは「ルサンチマンは嫌だよね」ということである。

でもそのことに気づかない当人同士もしくは外野の間で、対立していると勘違いした意味のない議論が始まったりする。

例えばTwitterは、「言葉」のメディアだからどうしても汚染された言葉の問題にぶつかる。
そして言葉が汚染されていることを想定すらしていない人々の間で、不毛な議論が始まってしまう。こういう「言葉が違うはずがない!」という村意識がとても強い場所では、本来、マジョリティ以外の人には発言権がない。

twitterは上下教のユートピア的なところがあるので、上下教以外には発言権はない。
だから140字しかないのである。

(無意識に落とし込まれた共通言語は言語化する必要がないから)

つまり、あれはある種の文化圏なのだ。
そこに異教徒がズカズカ入り込んで行ったら問題が起きるわけ。

(炎上するとか襲撃されるとか。つまり内紛よ〜。)

上下教が多いので、Twitter上のマジョリティに働きかけをしたかったら、上下教徒の言語を使わないといけない。

例えば優しい言葉がけではダメ、皮肉を利かせて、男性or男性口調でないといけない。ニヒリストが歓迎され、常に下から目線が重要だ。(上下教は厳しいのだ!)

例えば「俺は辛くないから、お前もこっちこいよ、教えてやる」だとプライドが傷つくので炎上するし襲撃される。「俺も辛いけどさ、お前も辛いよね。でも、俺も辛いけどさ。」にしないとマジョリティには響かないのである。

あ、つまり永遠に「こっち来い教えてやる」のチャンスはこないし、言ったら「俺さまに指図するなぁ俺さまを憐れむなぁ!!」となるわけです。

まあ、話が少し逸れたけど。

とはいえ、私がいつも治療の対象にしてきた「上下教を辞めたい人」というのは「今上下教」ということでもあるので、ずっとずっと言葉の除染問題について私は頭を抱えてきた。

しかしそれが解決した。解決させた方はたったひとつ。

それは「自分を除染する」(=損切り)である。

除染すると、汚染された言葉について非常に理解ができる。能力が上がるからだ。

すると「発言するのが怖くない」という現象が起きる。

発言する場所と発言する言葉について正確に理解ができる。

間違ったとしても自分の中で理解ができていれば解説したり訂正したりもできる。

怖くない。

汚染された言葉を除染せずそのまま使うと「努力はしちゃだめ!でも努力が足りない!」という言葉になってしまい「こいつ大丈夫か?」という具合になる。

今までのわたしw

「努力はしちゃだめ!でも努力が足りない!」を除染するとこうなる

「自分の価値を上げようと思って頑張るのはだめ!でも価値がある自分を前提にした時に、対処しなきゃいけないことはたくさんあるからそれをやろう!」という意味になる。

ね?バカがマシになるでしょ?

世の中は、除染されてない言葉で溢れている。

前者を努力といい、後者も努力という。

上下教の人に足りてない努力は後者の努力で、社会を窮屈にする努力は前者の努力である。

このように!明快に!

汚染された言葉の一つ一つを!

除染することができるのだ!

すごい!おめでとう!

言葉の汚染の具体例はそのうち記事にします!


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